「救い」は宗教の使命

宗教の最大にして根源的な目的は信仰者に「救い」をもたらすことだ。

「救い」を与えることが宗教の使命といってもよいだろう。そして宗教は「救い」を売りにしているといってもいいだろう。

人々も「救い」がもたらされるから宗教を信じている。

では「救い」とはどんなものなのだろうか?「救い」の感覚とはどんなものなのだろうか?

「救い」は人生のどん底で必要になる

人間が「救い」を必要と場面は限られている。自分がどん底を味わっている時、人生の先が見えない時、生きる意味が見いだせない時、死という恐怖が差し迫った時、言いようのない不安に苛まれた時などである。いずれもネガティブな状況にある時だけである。

むしろ、「救い」とは人生におけるネガティブな状況が発生することによって必要になる概念である。人生が非常に順風満帆で全てに満足している時には「救い」は必要ない。故に「救い」は人生における不足を補うものでもあるといえる。

そして「救い」とは自分の力ではどうしようもないネガティブな状況を癒す力がある。自分の力だけではなく、人数が集まっても決して克服できないネガティブな状況、つまり人間の力では克服できないネガティブな状況に対処し、癒す力である。逆に言えば、人生におけるネガティブな状況であっても、自分の力や人間の力で克服できる場合には「救い」求める必要はない。勉強ができない、仕事のミス等のものはほとんどの場合、自分の努力次第で解決できる事柄である。しかし、大災害で家族や故郷を失ったことや、理不尽な犯罪に巻き込まれたこと、病を告知され自らの差し迫った死を知ったことなど、自分の力では決して解決できないネガティブな状況に陥った時に人間は初めて「救い」を求める。

「救い」は主観的な癒し

これは「救い」についての面白い特徴であるが、「救い」にはネガティブな状況を具体的に解決する力はない。しかし、「救い」はネガティブな状況に陥って苦しんでいる個人の心を癒す力はある。つまり「救い」は(心の・精神的な)癒しをもたらす概念といえるだろう。

このように人間の力では決して克服できない人生のネガティブな状況に癒しをもたらしてくれる「救い」を知った人は、「救い」に絶大な価値を置く。「救い」こそ人生最大の価値となってしまう。だからこそ、人生の他の価値をなげうってでも、自分に「救い」をもたらしてくれた宗教に心底帰依し、お金を捧げ、自分の時間を捧げることも全く厭わなくなるのである。

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