「救い」とは主観的な物語

「救い」の感覚とは一体どのようなものなのだろうか?端的に言って「救い」とは信仰者による主観的感覚である。客観的に何かが変わる訳ではないし、人生におけるネガティブな状況が解決されるわけではない。

しかし、信仰者の主観において、「自分は絶対者に救われてネガティブな状況から解放されたのだ」という物語=ストーリーを作ることで「救い」は生まれるのである。やや批判的な言い方をすれば、「救い」とは信仰者による「自分は救われた」という思い込みである。しかし、より正確に言えば「救い」とは信仰者による主観的な物語の形成、人生を肯定的に意味づける物語の形成といえるだろう。

キリスト教が専門なので、キリスト教の「救い」の場合は以下の物語である。人間は生まれながらにして罪人である。それは人間は原罪を抱えているからである。しかし、神であり人であるイエスが人間を罪から救うために十字架に架かって死んだ。神であるイエスが人間の罪を引き受けて死んだから、イエスを神であると信じる者は罪=原罪から救われる。罪から救われていない人間は最後の日に神よって裁かれてしまうが、イエスを神であると信じる者は神の国に行くことが出来る。

以上がキリスト教の「救い」の物語である。

キリスト教の信仰者はこの物語を主観的に形成することで自分は救われていると思うのである。この「救い」の物語は信仰者以外からすれば、信仰者の思い込み以外に他ならない。

「救い」とは人生という物語の書き換え

「救い」とはネガティブな状況である現実に対して肯定的な意味付けをすることであり、自分の人生をそれまでにない物語として再構築することである。「救い」とは人生の書き換えであるといえるだろう。非常に主観的な行為であるが、人生を肯定的に解釈することでネガティブな状況を癒す。それが「救い」である。そして「救い」による人生の絶対的かつ肯定的な解釈は死の恐怖をも乗り越えるのである。なぜなら、死の克服すら物語に組み込まれているからである。

しかし、人生の意味付けや解釈とは主観の塊である。人生の意味付けは主観による物語である。そして現実とは主観によって生成されるものである。その意味で、信仰者がそのように人生を意味付けするということは、彼らにとってその物語はその現実そのものなのである。それが彼らの生きている現実なのである。

「救い」による信仰者の主観的優越性

「救い」の感覚はまた、面白い主観を生み出す。それは、救われた後は救われる前よりも自分が様々なレベルで高められるという主観である。キリスト教で言うところの聖化であり、神の国=天国への保証である。

しかし、これも宗教の「救い」の前提を考えれば当然である。救われる前は「救い」を必要とする不完全な人間であったが、救われた後は「救い」の必要のない人間になったということである。それはつまり、救われる前よりも様々な次元で高められたということである。それは、宗教による信仰者と非信仰者の区別であり、信仰者の主観的な優越性である。少なくとも救われた信仰者の主観はそう考えている。むしろ信仰者・非信仰者に格差を生み出さなければ、「救い」の重要性が失われてしまう。そのために、信仰者の方が非信仰者に対して優越している状況を生み出すことは宗教において必須の条件といえるだろう。

「救い」とは何なのか?

「救い」とは何か?一言で述べるなら、「人生という物語に対する主観的な癒し」だろう。

以上、「救い」とは何かの考察を終わりにする。

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