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たまにの暮らし‐tamany‐

人生いろいろ ぼちぼち生きましょう

2月 2016

超越論的キリスト教批判7「机上の空論」

私が日本のキリスト教について最も批判的なのは、教会が教えることと、教会が行っていることの著しい乖離についてです。

教会は「イエス・キリストは救い主であり、主を愛し、主に従って生きる」ことを教えています。主に従って生きるとは、主イエスが我々を愛したように、我々も互いに愛し合って生きるということです。つまり、神を愛し、隣人も愛する。それがキリストに従って生きる者の在り方であり、教会の教えるところです。上記が「一般化・理念化されたもの」であるキリスト教の教えでしょう。

しかし、教会の「現実」は全く異なります。むしろ、教会は私たちが生きる「現実」を無視しています。牧師や神学校のお偉い先生方は礼拝の説教や教会の聖書研究会、あらゆる場面でことあるごとに「隣人愛」の大切さを語ってきます。彼らのご高説自体は正しいものです。

しかし、問題なのは、それが口だけという点です。牧師や神学者たちは口先だけは麗しく、自分たちの生活や実践には全く結びついていないのです。自分たちの教えていることと、自分たちがやっていることが全く乖離している。いや、むしろ真逆の行いをしているのです。

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超越論的キリスト教批判6「説教および聖書は神の言葉か?」

前回、説教について批判しましたが、今回はさらにもう一歩踏み込んだ領域、説教は神の言葉であるのかということについて考えていきます。

そもそも人間が語る聖書についての解釈が、何故キリスト教会においては御言葉=神の言葉となるのでしょうか?

私は神学を学んでいた当初からその疑問を抱いていました。

人間の言葉が神の言葉となる。そんなことは論理的に破綻しているのではないか、そう直感していました。

しかし、教会において説教が神の言葉であるということは決して譲れない主張です。

そもそもですが、教会は御言葉を3種類あるとしています。第一にイエス・キリスト。不思議に思えるかもしれませんが、キリストは神の言葉(ロゴス)なのです。第二に聖書。第三に説教です。

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超越論的キリスト教批判5「説教・教え」

キリスト教(特にプロテスタント)において、説教は礼拝において極めて重要な構成要素です。

宣教やキリスト教信仰の継承は説教を通してなされてきたと言っても過言ではありません。

教派によってやや捉え方は違いますが、説教というものを「一般化・理念化されたもの」として述べるならば、「説教は御言葉であり、聖書の解き明かし」といえるでしょう。基本的にキリスト者は説教を聴くことで信仰が育てられていきます。また説教を通して信徒は、主に従って生きるという信仰生活の意味を学んでいきます。

故に説教ではキリスト教の教えが語られます。それは隣人愛であったり、キリスト者としての在り方、信仰生活の仕方、主(キリスト)に従っていくこと、十字架の意味などです。また、説教においてはそもそもの隣人愛の根拠、信仰生活の根拠なども教えられます。

しかし、これらはあくまで「一般化・理念化されたもの」の説教の姿です。

「現実」は異なる姿を示しています。

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超越論的キリスト教批判4「現実を見よ」

私が今日の日本のキリスト教を「腐り切っている」と公言するには理由があります。

端的に述べるならば、今の日本のキリスト教は、私たちが生きている「現実」からかけ離れたものとなっており、また「現実」から目を逸らし、独りよがりな価値観と世界観を「構築」しているからです。

現在の日本のキリスト教は教えにおいても、組織においても、行動原理においても、私たちが生きている「現実」を無視して、独自の世界観を展開しています。

一キリスト者であり、長年教会において奉仕し、現場で働いてきた私にとって「現実」は無視できるものではありませんでした。しかし、教会の一般化・理念化された教え・組織・世界観と「現実」とが余りにも乖離しています。

この乖離こそが、私がキリスト教批判する理由です。

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