「認識について4」の続きです。
前回は「主体」は「認識」・「内的存在」の根源であることを述べました。
私たちは「主体=私」があることで、そもそも「認識」することができます。
そして、また「主体」の覚知は一人ひとり異なるということもお話しました。
今回は、いよいよ結論である、認識不確定性原理、認識不完全性原理について述べます。
1. 認識不確定性原理
まず、認識の不確定性について。
「主体」が違えば、「私」であるという覚知も異なります。これは「主体」の相対性と言い表せます。
「認識について4」の続きです。
前回は「主体」は「認識」・「内的存在」の根源であることを述べました。
私たちは「主体=私」があることで、そもそも「認識」することができます。
そして、また「主体」の覚知は一人ひとり異なるということもお話しました。
今回は、いよいよ結論である、認識不確定性原理、認識不完全性原理について述べます。
まず、認識の不確定性について。
「主体」が違えば、「私」であるという覚知も異なります。これは「主体」の相対性と言い表せます。
「認識について3」の続きです。
前回は「認識」というシステムについての話で、「認識」は「感知」と「識別」という2つの機能によって構成されているということを確認しました。
今回は、「主体」について考えてたいですが、まずは前回の補足からいきます。
前回の最後は、私たちは「認識」に生み出された「内的世界」の中で生きているというところで終わりました。
突然出てきた「内的世界」という言葉について説明します。
私たちは「認識」というシステムを通して「内的存在」を生み出します。
「認識について2」の続きです。
前回の話の中で、結論として「認識」には原理的に導かれる根源的な欠陥があること、他者と確定的で完全な「認識」共有する基盤を構築することは不可能であると述べました。
今回は、なぜそのような結論に至ったのかを説明するために、まず「認識」のシステムについてお話いたします。
私たちは認識という言葉を聞くと、情報を受け止め、それをどのように脳で処理するかという過程だと考えます。
私がこれから述べる「認識」とはそういった脳の働きも含みますが、より根源的な意味を持っています。
「認識」は大きく分けて「感知」と「識別」の2つの機能に分かれます。
前回の「認識について1」の続きです。
「認識」についての自論を展開いたします。
私たちが普段生活する時にはほとんど意識することはありませんが、私たちは自分が今見ている風景、感じている経験は、他の誰かときっと共有できると当然のように考えているはずです。
私とあなたが、同じ時間、同じところに出かけ、同じ風景を見たならば、二人はほぼ同じ光景を見れたと普通は考えます。
他にも、同じお店に入り、同じ食事を注文して、食べたならば、その味を共有できると考えています。
私たちは自分が感じている感覚は同じ体験をすれば、他の人も同じ感覚を味わうと思っていますし、同じものを見れば、同じ「認識」をするはずだと考えています。
私たちは言語や非言語(表情や仕草など)を用いながら。他者と意思疎通を図っています。
しかし、私たちが生きる世界は誤解や偏見、事実誤認から様々な争い事が絶えず起こり続けています。
コミュニケーションの齟齬は人間関係の小さな争い事だけでなく、時に殺人、また国レベルでは戦争にまで発展することがあります。
なぜ、私たちの世界はこんなに争い事が多いのだろうか?
なぜ、こうまでコミュニケーションとは不完全で、不確定なものなのか?
私はそれを考えてきました。
そして、私なりの答えが1つ見つかりました。
生きる意味とは何か?
これは漠然としていて答えようのない質問です。
種の保存こそ、生命の存在意義と答える方もいらっしゃると思います。
しかし、私たち人間は単に繁殖すること以上に、知的創造性が与えられています。
人間は種を保存することだけではなく、自らの人生においての意味を見出そうとします。
それは自分のアイデンティティと密接に関わってきます。
もし、生きる意味を考えることもせず、ただ毎日を暮らすだけの人生ならば、それは精神的には動物と何も変わりません。
日本は毎年3万人ほどの自殺者が出ています。
WHOの報告によると日本の自殺率は10万人中18.5人とのことです。
しかし、驚くべきことに日本は遺書がない限り、全て変死として扱われます。日本は年間15万人の変死者が出ており、WHOは変死者の半分を自殺として扱い、残りの半分を他殺か病死として扱うように決めています。
このWHOの基準を採用するならば、日本の年間自殺者は、変死者の半数7.5万人+公表自殺者3万人=10.5万人ということになります。
確実に言えることは、日本において年間3万人以上の自殺者が出ていることです。
社会人がストレスによって自ら命を絶つのは非常に痛ましいことです。
しかし、学生にとっても自殺は無視できないものとなっています。