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縄文文化と原始神道3

3.原始神道とは何か

原始神道・古神道と呼ばれているものは、ある時点で誰かによって創始された宗教ではありません。キリスト教や仏教の様に、創始者がいて、教典があり、教えを広めた特別な宣教者がいるという訳でもありません。

原始神道とは、縄文人の生活の知恵の結晶であり、生活の道といえるものです。神道は、惟神の道(かんながらのみち=神と共にあるという意味)とも呼ばれています。原始神道とは縄文人・日本人の生き方そのものです。だからこそ、原始神道は縄文人が自然に対して抱いていた畏敬の念によって生まれてきたものであると言うことができます。

縄文人は非常に感受性が豊かな人々でした。それは、自然をモノとして唯物的に見るのではなく、自然の中にある豊かな生命力を感じ、そこに生命への根源的な働きが表れていることを感じ取ったのです。そして、その自然の中にある生命力に、自分たちを超えたものがあると悟り、これを神と捉え、畏れ、崇めるようになっていったのです。

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縄文文化と原始神道2

2.縄文人の生活-原始神道

原始神道の起源を探ってみると、その源流は縄文時代にまで遡ることができます。

縄文時代に誕生し、発展していった固有の信仰体系は原始神道・古神道・縄文神道・神祇信仰と呼ばれ、神社神道とは区別されて考えられています。そもそも、当然ながら縄文時代には「神道」なる言葉は存在していませんでした。

神道とは中国の「易経」や「晋書(しんじょ)」に出てくる言葉ですが、日本で固有の意味をもって用いられたのは、外来宗教である仏教や道教・儒教と日本古来の信仰を区別することがきっかけであったと考えられます。

日本人が区別する意味で「神道」という言葉を用いた最古の記録は、720年に編纂された『日本書紀』の第二十一巻「用明天皇紀」、また第二十五巻「孝徳天皇紀」に記されています。

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縄文文化と原始神道1

神道とは、日本に固有の信仰体系であると言われています。神道と聞けば、多くの人は日本人の宗教と自然に考えるでしょう。

しかし、ちょっと考えれば気付くことですが、私たちは、自分たち自身の先祖のことについてほとんど知っていません。

今回からの「縄文文化と原始神道」では、何回かに分けて神道がどのように生まれてきたのかについて考えていきたいと思います。まず最初は、原始神道が生まれることになった古代の日本について考えていきます。

1.日本人とは何か

私たち日本人の祖先は、少なくとも2万年前に今のロシア南東部のバイカル湖付近に住んでいた人々が日本列島に入ってきたり、東南アジアの人々が入ってきたことが始まりだとされています。

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認識について6

前回で「認識について」のお話は終わりました。

今回は前回までの認識についての話のまとめです。

A 「認識」の根源は「主体ー私」である。

B 「主体ー私」は本質的に相対的であり、不確定性を孕んでいる。(「主体」ごとに「私」であるという覚知が異なり、同一「主体」であっても加齢によって「私」であるという覚知が変化する)

C AとB故に、「認識」もまた相対的で不確定なものである。

D →認識不確定性原理

E 「感知」は「認識」を構成する一機能である。

F 「感知」は不完全である。(感覚器には限界があり、「感知」できなければ「外的存在」があったとしても、それは存在しないと同じ)

G EとF故に、「認識」もまた不完全である。

H →認識不完全性原理

I 他者と確定的で完全なる「認識」を共有するには、確定的な「主体」と完全なる「認識」が必要。

J DとH故に、原理的に他者と確定的で完全なる「認識」を共有する基盤を構築することは不可能である。

認識論

 

認識について5 認識不確定性原理・認識不完全性原理

「認識について4」の続きです。

前回は「主体」は「認識」・「内的存在」の根源であることを述べました。

私たちは「主体=私」があることで、そもそも「認識」することができます。

そして、また「主体」の覚知は一人ひとり異なるということもお話しました。

今回は、いよいよ結論である、認識不確定性原理、認識不完全性原理について述べます。

1. 認識不確定性原理

まず、認識の不確定性について。

「主体」が違えば、「私」であるという覚知も異なります。これは「主体」の相対性と言い表せます。

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認識について4

「認識について3」の続きです。

前回は「認識」というシステムについての話で、「認識」は「感知」と「識別」という2つの機能によって構成されているということを確認しました。

今回は、「主体」について考えてたいですが、まずは前回の補足からいきます。

前回の最後は、私たちは「認識」に生み出された「内的世界」の中で生きているというところで終わりました。

1. 内的世界

突然出てきた「内的世界」という言葉について説明します。

私たちは「認識」というシステムを通して「内的存在」を生み出します。

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認識について3

「認識について2」の続きです。

前回の話の中で、結論として「認識」には原理的に導かれる根源的な欠陥があること、他者と確定的で完全な「認識」共有する基盤を構築することは不可能であると述べました。

今回は、なぜそのような結論に至ったのかを説明するために、まず「認識」のシステムについてお話いたします。

私たちは認識という言葉を聞くと、情報を受け止め、それをどのように脳で処理するかという過程だと考えます。

私がこれから述べる「認識」とはそういった脳の働きも含みますが、より根源的な意味を持っています。

「認識」は大きく分けて「感知」と「識別」の2つの機能に分かれます。

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認識について2

前回の「認識について1」の続きです。

「認識」についての自論を展開いたします。

私たちが普段生活する時にはほとんど意識することはありませんが、私たちは自分が今見ている風景、感じている経験は、他の誰かときっと共有できると当然のように考えているはずです。

私とあなたが、同じ時間、同じところに出かけ、同じ風景を見たならば、二人はほぼ同じ光景を見れたと普通は考えます。

他にも、同じお店に入り、同じ食事を注文して、食べたならば、その味を共有できると考えています。

私たちは自分が感じている感覚は同じ体験をすれば、他の人も同じ感覚を味わうと思っていますし、同じものを見れば、同じ「認識」をするはずだと考えています。

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認識について1

私たちは言語や非言語(表情や仕草など)を用いながら。他者と意思疎通を図っています。

しかし、私たちが生きる世界は誤解や偏見、事実誤認から様々な争い事が絶えず起こり続けています。

コミュニケーションの齟齬は人間関係の小さな争い事だけでなく、時に殺人、また国レベルでは戦争にまで発展することがあります。

なぜ、私たちの世界はこんなに争い事が多いのだろうか?

なぜ、こうまでコミュニケーションとは不完全で、不確定なものなのか?

私はそれを考えてきました。

そして、私なりの答えが1つ見つかりました。

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