検索

たまにの暮らし‐tamany‐

人生いろいろ ぼちぼち生きましょう

作成者

Tama

新約聖書正典化の歴史2

以下の内容は田川健三『書物として新約聖書』に準拠しています。

旧約聖書という矛盾

キリスト教の新約聖書の正典化の歴史における「旧約聖書という矛盾」はパウロに最も顕著に表れています。

パウロにとってキリスト教の福音は明瞭にユダヤ教の否定的克服でした。しかし、矛盾することに、彼にとって旧約聖書はおそらく他のどのキリスト教徒にとってよりも絶対的な正典的な権威でした。このパウロの在り方が、これから形成されていくキリスト教の抱え込まざるを得なかった最大の矛盾として残るものです。

新約聖書の正典化の歴史とは、この矛盾をどう解消するかという、数百年に渡るキリスト教会の苦闘の結果だったと言えます。もっとも、結局その矛盾は解消しきれずに今日に至っています。 “新約聖書正典化の歴史2”続きを読む

論語3

通訳部分、要旨は山田勝美『全釈論語』に準拠。感想は私的解釈。

學而篇8

〈通訳〉

先生が言われた。「人の上に立つ者は、慎重に振舞わなければ威厳がなくなる。学問をすれば(視野が広くなり)偏った判断をしなくなる。誠実と信義を大切にしなさい。自分よりも劣った人と交わって(いい気になって)はならない。過失を犯したらぐずぐずしないで、すぐに改めることだ」

〈要旨〉

上に立つ人の心がけ。 “論語3”続きを読む

新約聖書の正典化の歴史1

新約聖書の正典化の歴史を田川健三『書物としての新約聖書』を基本にして紹介したいと思います。

特別な断りがない限り内容は『書物としての新約聖書』に準拠したものとなっています。

まず、『書物としての新約聖書』というタイトルがとても面白いです。

何故なら、聖書というものを神が書いた絶対不可侵なものとして捉えるのではなく、歴史の中で人間が書き、編纂した一つの書物として位置付けているからです。

新約聖書とは、後に新約聖書として組み込まれる個々の書物が書かれてから300年以上かかって、西暦2世紀後半から5世紀までの間に一つに纏められ、正統派のキリスト教会の正典とされたものです。
“新約聖書の正典化の歴史1”続きを読む

聖フランチェスコ

一時期Tamaはアッシジの聖フランチェスコにはまっていました。それなりの量の伝記を読んだなという記憶もあります。

以下は、その当時の記憶をたどって、私にとって特に印象的だったフランチェスコについてのお話です。

1.アッシジのフランチェスコとは

フランチェスコは1181/1182 年にアッシジで生まれた聖人で、フランシスコ修道会の創始者でもあります。

フランチェスコは若い頃、かなりの遊び好きで、毎晩仲間たちと宴会を開いて「宴の王」と呼ばれており、親からも呆れられていました。しかし、彼はある時、教会の十字架からイエスの「行って、私の家を建て直しなさい」という神秘体験をし、回心しました。

“聖フランチェスコ”続きを読む

論語2

Tamaは論語の専門家ではないので、基本的に『全釈 論語』に準拠していますが、ところどころ私訳も含まれています。

學而篇3

先生のお言葉、「言葉を上手く飾り(口先だけでうまいことを言ったり)、顔色を上手く繕うことには(うわべだけ愛想よく取り繕ったりすることには)、人間らしさはこもらないものだ。」

〈要旨〉口先だけの心にもないことを言ったり、表面をかざることは仁=人道にもとることである。

この社会は巧言令色で塗り固められています。

相手を尊敬する気持ちはさらさらないのに、相手に気に入られるためだけの麗しい言葉・うわべだけの優しさがどれほど蔓延しているのか。

“論語2”続きを読む

論語

『論語』は、孔子とその高弟たちの学問集団の活動・発言などを記録し纏め上げた20巻からなる書物です。

『論語』は孔子の生前に出来上がったものではありません。『論語』は孔子の死後約100年程経った頃に、孔子を中心とした学問集団の後継者たちによって書物が集積され、編纂されたものと言われています。内容は孔子の言動、孔子と弟子たちとの問答などの記録です。

この様な宗教的や哲学的指導者の言行録が正典として成立していく過程は世界的に見ても共通するところがあります。キリスト教の新約聖書、仏教の仏典、ソクラテスの対話編なども同じような過程を経て、それぞれは正典化していきました。

孔子の活動・学問の目的は、夏・殷・周の伝統を体系立てて纏め上げることで、それを基盤として、新しい人類の理想、つまり「仁」を見出し、「仁」を現実の社会で実践、また実現することにありました。 “論語”続きを読む

祈りとは

1.    祈りの誕生

祈りとは、文明の草創期から既にあったものです。祈りとは、人類が誕生した時から、行い始めた行為であるとされています。文化人類学的に言えば、祈りとは特定の宗教的な行為ではなく、人間にとって最も根源的な欲求に基づいた活動様式の一つなのです。祈りとは、人類全体において普遍的な活動なのです。何故なら、祈りとは、宗教の価値観や個人の思想を超えて、人類の発生から現在においてまで常に行われ続けてきたからです。

祈りの様式は、無数に分類されます。祈りとは、神聖視する対象、感謝する対象、恐怖する対象に対しての何らかの意思疎通を図ろうとする人間の行動様式です。また、その対象への意志の表明や表現することそのものが、祈りであるとも言えます。ですから、祈りの方法は、人間の取れる行動の数だけあると言えます。祈祷者の独白、呪文、定型句の朗誦、合掌、平伏、行進、踊り、円舞、歌、音楽、儀式そのもの、生贄をささげる行為、など諸々の行動・所作が祈りと結び付けられます。

“祈りとは”続きを読む

超越論的キリスト教批判7「机上の空論」

私が日本のキリスト教について最も批判的なのは、教会が教えることと、教会が行っていることの著しい乖離についてです。

教会は「イエス・キリストは救い主であり、主を愛し、主に従って生きる」ことを教えています。主に従って生きるとは、主イエスが我々を愛したように、我々も互いに愛し合って生きるということです。つまり、神を愛し、隣人も愛する。それがキリストに従って生きる者の在り方であり、教会の教えるところです。上記が「一般化・理念化されたもの」であるキリスト教の教えでしょう。

しかし、教会の「現実」は全く異なります。むしろ、教会は私たちが生きる「現実」を無視しています。牧師や神学校のお偉い先生方は礼拝の説教や教会の聖書研究会、あらゆる場面でことあるごとに「隣人愛」の大切さを語ってきます。彼らのご高説自体は正しいものです。

しかし、問題なのは、それが口だけという点です。牧師や神学者たちは口先だけは麗しく、自分たちの生活や実践には全く結びついていないのです。自分たちの教えていることと、自分たちがやっていることが全く乖離している。いや、むしろ真逆の行いをしているのです。

“超越論的キリスト教批判7「机上の空論」”続きを読む

超越論的キリスト教批判6「説教および聖書は神の言葉か?」

前回、説教について批判しましたが、今回はさらにもう一歩踏み込んだ領域、説教は神の言葉であるのかということについて考えていきます。

そもそも人間が語る聖書についての解釈が、何故キリスト教会においては御言葉=神の言葉となるのでしょうか?

私は神学を学んでいた当初からその疑問を抱いていました。

人間の言葉が神の言葉となる。そんなことは論理的に破綻しているのではないか、そう直感していました。

しかし、教会において説教が神の言葉であるということは決して譲れない主張です。

そもそもですが、教会は御言葉を3種類あるとしています。第一にイエス・キリスト。不思議に思えるかもしれませんが、キリストは神の言葉(ロゴス)なのです。第二に聖書。第三に説教です。

“超越論的キリスト教批判6「説教および聖書は神の言葉か?」”続きを読む

WordPress.com Blog.

上へ ↑