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たまにの暮らし‐tamany‐

人生いろいろ ぼちぼち生きましょう

作成者

Tama

超越論的キリスト教批判5「説教・教え」

キリスト教(特にプロテスタント)において、説教は礼拝において極めて重要な構成要素です。

宣教やキリスト教信仰の継承は説教を通してなされてきたと言っても過言ではありません。

教派によってやや捉え方は違いますが、説教というものを「一般化・理念化されたもの」として述べるならば、「説教は御言葉であり、聖書の解き明かし」といえるでしょう。基本的にキリスト者は説教を聴くことで信仰が育てられていきます。また説教を通して信徒は、主に従って生きるという信仰生活の意味を学んでいきます。

故に説教ではキリスト教の教えが語られます。それは隣人愛であったり、キリスト者としての在り方、信仰生活の仕方、主(キリスト)に従っていくこと、十字架の意味などです。また、説教においてはそもそもの隣人愛の根拠、信仰生活の根拠なども教えられます。

しかし、これらはあくまで「一般化・理念化されたもの」の説教の姿です。

「現実」は異なる姿を示しています。

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超越論的キリスト教批判4「現実を見よ」

私が今日の日本のキリスト教を「腐り切っている」と公言するには理由があります。

端的に述べるならば、今の日本のキリスト教は、私たちが生きている「現実」からかけ離れたものとなっており、また「現実」から目を逸らし、独りよがりな価値観と世界観を「構築」しているからです。

現在の日本のキリスト教は教えにおいても、組織においても、行動原理においても、私たちが生きている「現実」を無視して、独自の世界観を展開しています。

一キリスト者であり、長年教会において奉仕し、現場で働いてきた私にとって「現実」は無視できるものではありませんでした。しかし、教会の一般化・理念化された教え・組織・世界観と「現実」とが余りにも乖離しています。

この乖離こそが、私がキリスト教批判する理由です。

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超越論的キリスト教批判3「誤解」

キリスト者=クリスチャンと聞くと一般の人はどの様なイメージを持つでしょうか?

私が接してきた多くの人は、クリスチャンと聞くと真面目で、優しくて、清らかな心の持ち主であると考えるようです。また、信心深くて、聖書をよく読み、礼拝にも熱心に出席する。そういうイメージが強いみたいです。

しかし、私から言わせれば、これらのイメージは勝手な思い込みであり、いわばレッテル張りと同じです。

クリスチャンとはこうであるという典型イメージを押し付けられることは、私に限らず全てのキリスト者にとって不快なものです。

特に、私は一般的なキリスト者と全く異なる価値観を持っています。いわば超越論的キリスト者ともいえる存在です。

また、クリスチャンに対する典型イメージは、現実のクリスチャンの実像と全くかけ離れたものといえるでしょう。

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超越論的キリスト教批判2「超越論とは」

超越論的キリスト教批判題して投稿し始めましたが、「超越論的」にはきちんとした意味があります。

超越論とは何かを超えて、「上から」の立場で語るものではありません。形而上学とは異なります。超越論とはむしろ「下から」語ることを指します。現実そのもの、「事象そのもの」から語ることが超越論と言います。

超越論とは現象学の言葉です。

私は現象学から影響を受け、この発想を与えられました。

私たちは一般化された定式、理念化され確立したたものこそ物事の本質を指し示すものだと考えてしまいます。そして、私たちはその一般化されたもの、理念化されたものを何の疑いもなく、それが当然のものであり、自明のものであるとして受け入れてしまいます。または、受け入れないまでも、Aということに関して一般化・理念化されたものはAの本質について語っていると理解してしまいます。

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超越論的キリスト教批判1「はじめに」

私は長年、キリスト者として熱心かつ忠実に教会に仕え、奉仕してきました。

一信徒である以上に、神学を長年学び、その為の修練も積み重ねてきました。そして、多くの現場で働き、様々な信徒の方と関わってきました、

私はいわゆるクリスチャンホームで育ったわけでも、パスターズキッズ(牧師の子ども)であったわけでもありません。ごく一般的な家庭に生まれ育ちました。

しかし、私にとってキリスト者であること、またキリスト教と関わることは私の人生の大半の部分を占めるものであり、私の人生において切り離すことが出来ないもとのなっています。それが良い意味であっても、悪い意味であっても。

私は、一キリスト者としての信仰生活を通して、また神学を修め、現場に関わることを通して、日本のキリスト教の歪み・矛盾・人間関係の醜悪さを目の当たりにしてきました。

私は、その吐き気を催すような世界の中で何とか我慢して生きてきました。それも1、2年の話しではありません。長年に渡ってです。

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これからの「たまにの暮らし」

みなさんこんにちは!

ブログを再開にするに当たってこれからの「たまにの暮らし」のあり方について考えてみました。

当初の「たまにの暮らし」は、ブログの紹介文にある通り「気の抜き方、人生や生活に対する視点の変え方をご紹介できればいいなと思っています」という趣旨で始めました。

そして、ブログでは拙いながらも人生における視点の変え方や新しい視点を紹介いたしました。

しかし、この「視点の変え方や新しい視点」というのは、Tama自身の経験が元となっているものです。

従来は、そのTamaの経験を排除して、語らずに来ました。それは、文章の中立性を確保する上でやむを得ないことでした。

しかし、Tamaがこのブログで語ってきたことは単なる机上の空論ではないということも知って頂きたくもあります。

今まで書いてきた文章は、自分自身の人生の苦い経験から生まれてきたものであって、理想論なのではありません。Tama自身の生きた経験、内なる思いがその根底にあります。

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お久しぶりです

Tamaです。

皆さん、お久しぶりです。

本当に久しぶりにブログを更新します。

長らく無断でブログの更新を中断していましたこと、申し訳ありません。

Tamaはとある試験に集中する為に12月の半ば以降、ブログに手を付けることができませんでした。

12月まではブログの更新をしながら、試験の勉強もしていましたが、12月の半ばに差し掛かり、まあそろそろ試験勉強にも集中しないといけないなと思いまして、自分勝手ですが、ブログは一旦脇に置いといて、勉強一本にすることにしました。

そんなこんなで、1ヶ月以上無断でブログを空けてしまいました。

試験勉強もほどほどに集中してでき、試験も無事に終えることができましたので、そろそろブログの更新を再開しようと思います。

長い間お待たせしました。

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クリスマス豆知識4

6.現代サンタクロースの登場

前回、サンタクロースの原型が聖ニコラウスであるというお話をしました。

私たちは、サンタさんと言えば白髪で、ふっくらとした体形で、赤い帽子と衣装を身にまとった、笑顔の優しい、陽気で朗らかなおじいさんというイメージがあります。

しかし、このイメージは聖ニコラウスの時代にはないものでした。このイメージは随分後代によって作られたものです。

サンタクロースの原型である聖ニコラウスは司教でしたから、今のサンタクロースの姿とは大分印象が異なります。

聖ニコラウスは祭服を着て、杖を持ち、頭には長い三角帽子を被った、厳格なイメージです。

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足元が揺れる

日々のつぶやきです。

Tamaの悪い癖なのですが、たまに自分の立っているところが平らではないと考えてしまうところです。

地球は丸いですよね。

でも立っているところは、平ら。

実際の感覚としては、もちろん平らです。

しかし、地球は丸い。

そう考えると、自分が立っているところが平らではなく、斜めになっていると感じてしまい。

妄想によって、勝手に、一時的にブランコに揺られているような感覚に襲われます。

足元がゆらゆらするんですよね。

まあ、目眩になったという訳ではないですし、一時的なものなので、大したことはないのですが。

妄想の力って、凄いな。

たぶん、自分は平らなところに立っているという自意識が揺らくことで、身体感覚もそれに影響されるのではないかと考えたりします。

平らに立っているのが一番ですね。

当たり前の感覚を疑いすぎるのもあんまり良くないですね。

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