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たまにの暮らし‐tamany‐

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たまに人生

瞑想の心得2

2.瞑想の概要

瞑想の経験のない人が瞑想を行おうとする時のよくある間違いは、いきなり自分の心に入り込もうとすることである。どんなに瞑想に熟達した人でもいきなり自分の心に没入することはできない。瞑想状態に至るにはいくつかのスイッチを押す必要がある。それを無視して瞑想状態に入り込むことはできない。

瞑想には6つの段階がある。それぞれが次の段階のスイッチとなっており、段階を飛び越えて次に進むことは出来ない。 “瞑想の心得2”続きを読む

瞑想の心得1

1.瞑想についての理解

瞑想と聞くと、小難しくて、宗教っぽくて、特殊な人にしかできない行為だと思いがちである。確かに、瞑想を習得するには訓練が必要である。一朝一夕には習得できるものではない。しかし、瞑想自体は訓練さえ続ければ誰にでも出来る行為である。また、必ずしも宗教的なものとは限らない。また、意外に知られていないが、瞑想は優れたストレス解消法であり、精神的安定をもたらす技術でもある。瞑想とは、何か難しい真理を精神世界に行って探るだけの行為ではない。

ここで紹介する瞑想とは宗教的な内容ではなく、誰しもができる自分自身の心との向き合い方・技術、メンタルテクニックと理解してほしい。 “瞑想の心得1”続きを読む

あるクリスチャン

今の私にとってみれば、ほとんどのクリスチャンは理性的な思考の足らない人か、偏った思想の持主にしか見えない。特に、聖職者と呼ばれる人々などは偽善者だらけだと感じてしまう。

しかし、最近、あるクリスチャンを思い出す。

その人は、クリスチャンではあったが、真に愛の行動に情熱を燃やしていた人であった。しかも、ずっとである。短い炎で燃え尽きるのではなく、愛に生きるのがこの人の人生なんだなと感じる。多くの牧師たちは口だけである。有り難い言葉を奨めておきながら、自分は愛を実践しない。偽善者である。しかし、その人は違った。口に出すよりも、愛を実践することの方が先だった。その人を見て、私は「この人の真似は出来ないな」と感じた。自分には真似できない生き方を素で実践している人に驚いた。私が出会った多くのクリスチャンの中で、もっとも聖人に近い人であろう。 “あるクリスチャン”続きを読む

過去を超える

人生は山あり谷あり。順調にいくこともあれば、逆境に晒されることもあります。当たり前のことです。

自分のミスや不注意から苦難に会うのならばある程度諦めや覚悟はできると思います。しかし、完全な不条理から到底受け入れられない困難に巻き込まれなければならないことも残念ながらあります。

その様な完全に打ちひしがれた状態から立ち直ることは本当に大変なことです。長い時間もかかるでしょう。多くの場合、自分に苦難をもたらした相手や出来事に対して怒り、憎しみ、復讐に燃えるでしょう。それは当然の感情です。そして、その感情が時に自分を立ち直らせる原動力になる場合もあります。その様な感情を無理に封印する必要もありません。 “過去を超える”続きを読む

何のために祈る

祈りとは、自分を超えた超自然的存在に向かって、語り掛け、願うことである。

人間が祈るのは、独力ではどうしようもない状況、手が届かない事柄に対して、超自然的存在の力を借りて事態を良い方向にもっていきたいという願いがあるからである。

例えば、宝くじで一等が当たるように祈る。宝くじが当たるか当たらないかは完全に確率の問題である。我々が何かを働きかけて変化することは無い。つまり、私たちの手の届かない事柄である。しかし、是非とも一等が当たってほしい。自分ではどうにもできないことに属しているが、自分に有利に事柄が傾いてほしい。ならば、自分の力を超えている超自然的存在や超自然的力を頼ることで、何か特別な力がかかり、特別な変化がもたらされるかもしれない。その様な願望が超自然的存在に対する祈りとなるのである。 “何のために祈る”続きを読む

それぞれの生き方

世の中には、いわゆる「これがベターだ」と考えられる標準的な生き方があります。

日本で言うと、受験戦争に勝ち抜いて、良い大学に入って、良い就職先に就いて、公務員なりサラリーマンになって、結婚し、子どもができ、子どもたちが自立したら夫婦でためた貯蓄と年金で老後をゆっくり過ごす。

これがベターな生き方と呼ばれるものです。

それは、暗黙の了解の上で成り立っているものです。

この様な生き方をしなければならないという決まりはありません。

それ以外の生き方から大きく外れる時、大抵喜ばれません。

私たちはこの様な標準的な生き方は頭のどこかに刻まれています。そう学校においても家庭においても教育されてきたからです。 “それぞれの生き方”続きを読む

人生の価値

人生の価値とは何か?

どれだけ成功してきたか。どれだけ多くの財を築けたか。その様なものを人生の価値だと考える人が多くいる。

しかし、私はそうは思わない。

そもそも人生というのは他人によって価値が決められるようなものではない。

自分の人生の価値を決めるのは自分自身である。

自分の人生にどれほどの価値があるのかということで悩んでいる人がいたらこう言いたい。

人生の価値を他人と比較すること自体が間違いであると。

“人生の価値”続きを読む

日本人であるということ

戦後70年以上が経ち、世の中は社会構造、思想、教育が戦前・戦中と大きく変わった。時代が変わるのだから、社会やそこで生きる人々が変化していくのは当然である。しかし、私たちが日本人であるという根本的なところは変わらない。

私は、戦後直後から現在に至るまでの社会の変化に疑問を感じる。端的に言えば「嫌なもの」を感じる。戦後直後から始まった、日本に対する明らかな社会構造や思想・教育への意図的な変更、歴史認識の改竄が行われたことに強い不満を感じる。

今の世の中は明らかに左翼的思想に偏っている。そのことにどれほどの人が気付いているだろうか。殆どの人たちは自分たちが学校教育で学び、育てられていったことが中立的な立場からのもので、それが真実だと思っているだろう。しかし、それらの教育は左翼的からの立場の教育であり、左翼的思想によって歪められたものである。だから、世の中に出回っており、広く信じられている事柄が中立的・中庸なものだとは限らない。

この様な発言をすると、直ぐに右翼的・極右的だと断じられる。しかし、その様な発想に至ってしまう思考が既に左翼的歪められたものであると気付かなければならない。私の発言は右翼的なものではない。中立的な立場からのものである。中立的な立場が右に寄っていると思えてしまうのは、あなたの立場が既に左に寄っているという証拠である。

“日本人であるということ”続きを読む

交流分析5

7.人生脚本の分析

交流分析では、人生を「一遍のドラマのようなもの」と理解し、皆自分なりの脚本を持っていて、その脚本に書かれている役割に基づいて、人生という舞台で演じている、と考えています。

そして、この人生脚本とは「無意識の人生計画」であり、私たちの幼児期の幼児決断によって人生脚本テーマが決定されていくのです。

そして、人間は人生の重大な岐路に立たせられる時、この脚本に基づいて決断をしていきます。

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