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たまにの暮らし‐tamany‐

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キリスト教批判

深淵からの復帰

私はキリスト教世界に生きていました。

以前の投稿をお読みになった方ならば、私がどの様な世界に生きており、また現在キリスト教に対してどの様な感情を抱いているのかお分かりだと思います。

キリスト教の世界では、神・主イエスへの服従が尊ばれ、その生き方に向かって歩むのがクリスチャンの人生の目的とされています。それ自体は素晴らしい生き方だと思います。しかし、日本のキリスト教の教育は歪んでいます。自己謙遜という名目で、実際上は自己卑下の生き方を徹底的に教え込まれます。自分を価値の全くない罪人として、尊厳を全て剥奪され、だから神の救いが必要なのだ、神の救いがなければ生きていけないのだと叩き込まれます。それは教会学校であったても、説教であっても、神学校であっても同じ教育です。 “深淵からの復帰”続きを読む

イエスという男

私が教会に仕えていたころ、イエス・キリストは神だと教えられていた。そもそもキリストとは救い主という意味である。イエスは救い主であると宣言することが、イエス・キリストである。

これはキリスト教の根幹をなす教えである。人間であるはずのイエスという男が神であると主張するところにキリスト教の特色がある。その主張抜きにはキリスト教の教えは全てが崩壊する。あの十字架上で死んだ男が実は神であった。神が私たちの救いのために死んだのだ。ここにキリスト教の核心がある。しかし、人間が神であるということは初めから無理のある論理である。キリスト教は、イエスは神であり同時に人間であると主張している。半人半神であるということでもない。100%神であり、100%人間であると主張している。異なる属性が同時に両立することありえない。論理的に破綻している。キリスト教の教義は決定的な矛盾を抱えていると言わざるを得ない。

しかし、キリスト教はそのことを認めるわけにはいかない。イエスが神でなかったら、十字架上で死んだのは一人の逆説的反抗者の死でしかなくなってしまう。そうなるとイエスの死は人類の救いでもなんでもなくなってしまう。神が人類の罪の為に死んだという論理の中でこそキリスト教の救いは成立するのであり、それがただの一人の男の死でしかなかったならば、無意味であり、何の意味もなさなくなってしまう。キリスト教の教え全体が根底から覆されてしまうからである。だからこそ、キリスト教はイエスの人性・神性の論理的な破綻・矛盾を認めることは絶対ない。
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服従の構造

キリスト教が世界各国の植民地支配の前段階で宣教されていったのには理由がある。それはキリスト教会の教えが服従の構造を生み出してくれるからである。

キリスト教は神、キリストへの服従、愛、受容(または寛容)、忍耐を教える。これら一つ一つは素晴らしい道徳であり、これらを守り生活すればより豊かな人生を歩めるだろう。しかし、これは個人レベルの話しである。

民族とか国家という大きな枠組みでキリスト教の教えを受け入れてしまったならば、それは悲劇をもたらすことになる。

支配者にとって被支配者はなるべく自分たちに従順であることが望ましい。その次に望ましいのは不満を持ちながらもそれを爆発させずに反抗しない被支配者である。 “服従の構造”続きを読む

教会と日本人

日本のクリスチャンとは何故ここまで日本が嫌いなのだろうか。

私は長年キリスト教会の世界で生きていたので身に染みるほど感じたが、日本の教会とクリスチャンは徹底的に日本が嫌いなようである。ほとんど画一化された傾向である。クリスチャンである限り、日本を嫌いにならなければならないというのか。徹底的に日本を非難し、貶める。よくもまあここまでやるなと思うぐらいである。

私はその様な風潮に飽き飽きしている。クリスチャンであっても何故、日本を好きであると言ってはならないのか?日本人なのだから、日本が好きであっても良いではないか。

しかも、彼らが日本のことが嫌いなのは、事実誤認、改竄された歴史が理由になっている。真実や事実に基づいた上での「好き・嫌い」なら分かるが、そうでないものに基づいて断罪されるのはたまらない。彼らにとっては、クリスチャンになるということは、日本人を辞めるということなのだろう。

教会は多様な考えを受け入れない。特定の思想に支配されている。その思想に従わない限り、教会に属し、クリスチャンとして生活は出来ない。恐ろしい場所である。言論統制が敷かれている社会である。まるで、あの社会に生きているようである。

以前の投稿でも書いたが、教会は極左的思想を持った団体であり、反社会勢力である。

日本人であることと、クリスチャンであるということは両立できないのか。

Tama×まーやー キリスト教質問8-3

まーやーさんから頂いた聖餐の質問の続きと結論です。


 

Tama:もう一つ。これは面白いものがあります。これは聖餐式のみならず聖礼典全体に関わることです。聖礼典の効力というものは、それを執り行う者に左右されないという理屈があります。つまり、聖礼典を執行する者の性質を問わないということです。

例えば、執行者が不信仰であろうと、なかろうと、聖礼典は有効であると理解されています。何故なら、聖礼典の根拠は御言葉だからです。聖礼典の真の執行者は主であって、礼拝で執行する人間というのは単なる道具、神と聖礼典をつなぐ管であるという考えです。

これは、キリスト教の迫害の歴史の中でどうしても解決しないといけない問題から生まれた考えです。ローマ時代の迫害の時に聖職者を含めた多くのクリスチャンが躓きました。その時に問題になったのは、迫害によって躓いた、棄教した聖職者から洗礼とか聖餐という聖礼典を受けた信徒たちが「あの時、自分たちは洗礼を受けたけれども、あの躓いた聖職者から受けた聖礼典は有効だったのか。もう一回洗礼を受け直さないといけないんですか」という議論が起きました。

この混乱はかなり大きなものであったので、収拾を着けるために、「聖礼典は御言葉に根拠のある儀式だから執行する人間の属性に左右されることはない」と説明することで、なんとか事を収めたという経緯がありました。神学論争でいうところの人効説か事効説かということですね。アウグスティヌスの時代の大論争でした。
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Tama×まーやー キリスト教質問8-2

聖餐式の質問の続きです。今回はキリスト教会の論理をそのまま紹介しているので、知らない人には分かりにくい話ですし、つまらないと思いますがご了承ください。


 

Tama:そして、聖餐式というのは実は、各教派によって解釈が異なっています。特にカトリックとプロテスタントでは聖餐式自体の意味付けが違います。

まず、カトリックは礼拝のことをミサといいますが、カトリックにとって聖餐式、聖体拝領のないミサはミサとは言えないんですね。ですからプロテスタントのように月に一回礼拝の中で聖餐式をしますということはカトリックにとってはあり得ません。聖餐式・カトリックの言葉でいうところの聖体拝領の位置づけはプロテスタントと全然違います。

カトリック教会とってミサとは即ち聖体拝領のことなんですね。そして、カトリック教会では、ミサ毎にイエスの十字架の出来事が起こっている、聖餐はイエスの十字架の出来事の再現であると理解されています。つまり、聖餐は神へのイエス・キリストの犠牲、イエス・キリストという捧げものと理解されています。一方プロテスタント教会では、聖餐とは神からの私たちへの恵み、神から私たちに与えられたもの、神から私たちへのサービス(奉仕)と理解されています。

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Tama×まーやー キリスト教質問8-1

質問8つ目

まーやー:Tama先生、今日もよろしくお願いします。前回は洗礼についてお話を伺いました。今日はそれに続きまして、聖餐式についてお話を伺いたいと思います。聖餐式というのは、礼拝の中でも重要な部分になっていると思います。

具体的には、パンとぶどう酒が出てきまして、それを私たちが頂くということだけなんですけれども。時々教会では聖餐式の時にミスが起きたりするんですね。そうしますと、そのミスを大変重大なものとして扱うということがあります。

それは、順番を間違えたり、ある時には牧師がジーパンで配餐するということもありました。それについて長老さんが大変怒ったということもありました。そういうことを考えますと、クリスチャンにとってこの聖餐式というのは大変大きなものであるということが伺えます。

また、他の宗教には、皆が一つのパンなり飲み物なりを食べるという儀式は私は聞いたことがないんですね。そうすると、聖餐式が他の宗教と比べて特異的なもののような気がしてなりません。ざっくばらんに、簡単に、分かりやすく説明して頂ければと思います。

Tama:聖餐とか聖餐式についてということですね。聖餐式というのは、確かにキリスト教に独自の儀式と言えると思います。特に、ぶどう酒をキリストの血、パンをキリストの体として頂くという宗教的な行為というのはキリスト教独自のものだと思います。むしろ、聖餐式という儀式が礼拝の中にあるということが、キリスト教とユダヤ教の明確な違いです。キリスト教をキリスト教としている儀式とも言えるでしょう。 “Tama×まーやー キリスト教質問8-1”続きを読む

Tama×まーやー キリスト教質問7-2

前回の洗礼の質問の続きです。前回では、主に洗礼の歴史についてお話しました。今回は、洗礼の教会にお行ける現状です。


 

まーやー:今まで、洗礼の歴史や定義についてお話頂きました。実際に教会に通っている人からすると、洗礼を受けませんかと言われたとき、洗礼を気軽に受けてしまっていいのか、受けた後辞めたいと思った時にどうなってしまうのだろうという不安があるのですけれども、いかがでしょうか。

Tama:そうですね。洗礼を受けるということは、人生にとって非常に重大な意味があります。前回の質問の時に既に答えましたが、キリスト教の信仰を持つということ自体が、日本人としての意識を飛び越えることが必要であると言いました。洗礼を受けるということは、それ以上の意味を持つんですね。つまり、キリスト教の神を信じる、イエス・キリストの復活を信じるということ、そして教会のメンバーシップ・構成員になることを意味しています。自分が今までとは違うグループに属する、その様な属性を自分が持つということが、明確な形になる訳ですね。

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Tama×まーやー キリスト教質問7-1

質問7つ目

まーやー:それではTama先生、次の質問をお願いします。洗礼について伺いたいと思います。どういったものなのかを教えてくださればと思います。

Tama:洗礼というのは、キリスト教会においては、イエス・キリストを救い主であると信じる、三位一体の神を信じると告白して、神の救いに与り、教会のメンバーシップになるという儀式であると理解されています。しかし、洗礼の歴史を遡ってみますと、元々はユダヤ教に起源を見ることができます。

ユダヤ教では洗礼者ヨハネが出てくる何世紀も前から儀式的な清めの行為として行われてきました。水を用いての清め、沐浴、浸礼が行われており、罪やけがれを洗い流す儀式、文字通り洗う儀礼だったと言えます。旧約聖書のレビ記14章、民数記19章に水を用いた清めの儀式について書かれています。 “Tama×まーやー キリスト教質問7-1”続きを読む

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