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キリスト教批判

新約聖書正典化の歴史3

以下の内容は田川健三『書物として新約聖書』に準拠しています。

「異端」から正典が始まった

キリスト教の歴史の中で初めてキリスト教独自の正典を持とうという試みを成したのは、正統派のキリスト教ではなく、むしろ彼らによって「異端」として排除されたマルキオンなる人物でした。正統派のキリスト教よりもマルキオンの方が実は一歩先んじて「純粋」なキリスト教を実現してしまっていたのです。

マルキオンによれば、「キリスト教徒が旧約聖書を権威として担ぐのは間違っている。旧約聖書というものはもう克服されたものではないか。既に自分たちが克服したはずのものを自分たちの絶対的権威にする訳にはいかないだろう」ということです。その意味でマルキオン及びその信奉者たち(マルキオン派)は、キリスト教の出発点の思想を真に素朴且つ忠実に信奉しようとしたと言えます。そこでマルキオンは、旧約聖書的な要素を一切排除する代わりとして、キリスト教独自の文書を正典として確立しようとしました。キリスト教史上初めて新約正典を持とうという発想を持ったのも、それを実行に移したのも、マルキオンだったのです。

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新約聖書正典化の歴史2

以下の内容は田川健三『書物として新約聖書』に準拠しています。

旧約聖書という矛盾

キリスト教の新約聖書の正典化の歴史における「旧約聖書という矛盾」はパウロに最も顕著に表れています。

パウロにとってキリスト教の福音は明瞭にユダヤ教の否定的克服でした。しかし、矛盾することに、彼にとって旧約聖書はおそらく他のどのキリスト教徒にとってよりも絶対的な正典的な権威でした。このパウロの在り方が、これから形成されていくキリスト教の抱え込まざるを得なかった最大の矛盾として残るものです。

新約聖書の正典化の歴史とは、この矛盾をどう解消するかという、数百年に渡るキリスト教会の苦闘の結果だったと言えます。もっとも、結局その矛盾は解消しきれずに今日に至っています。 “新約聖書正典化の歴史2”続きを読む

新約聖書の正典化の歴史1

新約聖書の正典化の歴史を田川健三『書物としての新約聖書』を基本にして紹介したいと思います。

特別な断りがない限り内容は『書物としての新約聖書』に準拠したものとなっています。

まず、『書物としての新約聖書』というタイトルがとても面白いです。

何故なら、聖書というものを神が書いた絶対不可侵なものとして捉えるのではなく、歴史の中で人間が書き、編纂した一つの書物として位置付けているからです。

新約聖書とは、後に新約聖書として組み込まれる個々の書物が書かれてから300年以上かかって、西暦2世紀後半から5世紀までの間に一つに纏められ、正統派のキリスト教会の正典とされたものです。
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超越論的キリスト教批判7「机上の空論」

私が日本のキリスト教について最も批判的なのは、教会が教えることと、教会が行っていることの著しい乖離についてです。

教会は「イエス・キリストは救い主であり、主を愛し、主に従って生きる」ことを教えています。主に従って生きるとは、主イエスが我々を愛したように、我々も互いに愛し合って生きるということです。つまり、神を愛し、隣人も愛する。それがキリストに従って生きる者の在り方であり、教会の教えるところです。上記が「一般化・理念化されたもの」であるキリスト教の教えでしょう。

しかし、教会の「現実」は全く異なります。むしろ、教会は私たちが生きる「現実」を無視しています。牧師や神学校のお偉い先生方は礼拝の説教や教会の聖書研究会、あらゆる場面でことあるごとに「隣人愛」の大切さを語ってきます。彼らのご高説自体は正しいものです。

しかし、問題なのは、それが口だけという点です。牧師や神学者たちは口先だけは麗しく、自分たちの生活や実践には全く結びついていないのです。自分たちの教えていることと、自分たちがやっていることが全く乖離している。いや、むしろ真逆の行いをしているのです。

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超越論的キリスト教批判6「説教および聖書は神の言葉か?」

前回、説教について批判しましたが、今回はさらにもう一歩踏み込んだ領域、説教は神の言葉であるのかということについて考えていきます。

そもそも人間が語る聖書についての解釈が、何故キリスト教会においては御言葉=神の言葉となるのでしょうか?

私は神学を学んでいた当初からその疑問を抱いていました。

人間の言葉が神の言葉となる。そんなことは論理的に破綻しているのではないか、そう直感していました。

しかし、教会において説教が神の言葉であるということは決して譲れない主張です。

そもそもですが、教会は御言葉を3種類あるとしています。第一にイエス・キリスト。不思議に思えるかもしれませんが、キリストは神の言葉(ロゴス)なのです。第二に聖書。第三に説教です。

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超越論的キリスト教批判5「説教・教え」

キリスト教(特にプロテスタント)において、説教は礼拝において極めて重要な構成要素です。

宣教やキリスト教信仰の継承は説教を通してなされてきたと言っても過言ではありません。

教派によってやや捉え方は違いますが、説教というものを「一般化・理念化されたもの」として述べるならば、「説教は御言葉であり、聖書の解き明かし」といえるでしょう。基本的にキリスト者は説教を聴くことで信仰が育てられていきます。また説教を通して信徒は、主に従って生きるという信仰生活の意味を学んでいきます。

故に説教ではキリスト教の教えが語られます。それは隣人愛であったり、キリスト者としての在り方、信仰生活の仕方、主(キリスト)に従っていくこと、十字架の意味などです。また、説教においてはそもそもの隣人愛の根拠、信仰生活の根拠なども教えられます。

しかし、これらはあくまで「一般化・理念化されたもの」の説教の姿です。

「現実」は異なる姿を示しています。

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超越論的キリスト教批判4「現実を見よ」

私が今日の日本のキリスト教を「腐り切っている」と公言するには理由があります。

端的に述べるならば、今の日本のキリスト教は、私たちが生きている「現実」からかけ離れたものとなっており、また「現実」から目を逸らし、独りよがりな価値観と世界観を「構築」しているからです。

現在の日本のキリスト教は教えにおいても、組織においても、行動原理においても、私たちが生きている「現実」を無視して、独自の世界観を展開しています。

一キリスト者であり、長年教会において奉仕し、現場で働いてきた私にとって「現実」は無視できるものではありませんでした。しかし、教会の一般化・理念化された教え・組織・世界観と「現実」とが余りにも乖離しています。

この乖離こそが、私がキリスト教批判する理由です。

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超越論的キリスト教批判3「誤解」

キリスト者=クリスチャンと聞くと一般の人はどの様なイメージを持つでしょうか?

私が接してきた多くの人は、クリスチャンと聞くと真面目で、優しくて、清らかな心の持ち主であると考えるようです。また、信心深くて、聖書をよく読み、礼拝にも熱心に出席する。そういうイメージが強いみたいです。

しかし、私から言わせれば、これらのイメージは勝手な思い込みであり、いわばレッテル張りと同じです。

クリスチャンとはこうであるという典型イメージを押し付けられることは、私に限らず全てのキリスト者にとって不快なものです。

特に、私は一般的なキリスト者と全く異なる価値観を持っています。いわば超越論的キリスト者ともいえる存在です。

また、クリスチャンに対する典型イメージは、現実のクリスチャンの実像と全くかけ離れたものといえるでしょう。

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超越論的キリスト教批判2「超越論とは」

超越論的キリスト教批判題して投稿し始めましたが、「超越論的」にはきちんとした意味があります。

超越論とは何かを超えて、「上から」の立場で語るものではありません。形而上学とは異なります。超越論とはむしろ「下から」語ることを指します。現実そのもの、「事象そのもの」から語ることが超越論と言います。

超越論とは現象学の言葉です。

私は現象学から影響を受け、この発想を与えられました。

私たちは一般化された定式、理念化され確立したたものこそ物事の本質を指し示すものだと考えてしまいます。そして、私たちはその一般化されたもの、理念化されたものを何の疑いもなく、それが当然のものであり、自明のものであるとして受け入れてしまいます。または、受け入れないまでも、Aということに関して一般化・理念化されたものはAの本質について語っていると理解してしまいます。

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