通訳部分、要旨は山田勝美『全釈論語』に準拠。感想は私的解釈。
學而篇8
〈通訳〉
先生が言われた。「人の上に立つ者は、慎重に振舞わなければ威厳がなくなる。学問をすれば(視野が広くなり)偏った判断をしなくなる。誠実と信義を大切にしなさい。自分よりも劣った人と交わって(いい気になって)はならない。過失を犯したらぐずぐずしないで、すぐに改めることだ」
〈要旨〉
上に立つ人の心がけ。 “論語3”続きを読む
通訳部分、要旨は山田勝美『全釈論語』に準拠。感想は私的解釈。
學而篇8
〈通訳〉
先生が言われた。「人の上に立つ者は、慎重に振舞わなければ威厳がなくなる。学問をすれば(視野が広くなり)偏った判断をしなくなる。誠実と信義を大切にしなさい。自分よりも劣った人と交わって(いい気になって)はならない。過失を犯したらぐずぐずしないで、すぐに改めることだ」
〈要旨〉
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新約聖書の正典化の歴史を田川健三『書物としての新約聖書』を基本にして紹介したいと思います。
特別な断りがない限り内容は『書物としての新約聖書』に準拠したものとなっています。
まず、『書物としての新約聖書』というタイトルがとても面白いです。
何故なら、聖書というものを神が書いた絶対不可侵なものとして捉えるのではなく、歴史の中で人間が書き、編纂した一つの書物として位置付けているからです。
新約聖書とは、後に新約聖書として組み込まれる個々の書物が書かれてから300年以上かかって、西暦2世紀後半から5世紀までの間に一つに纏められ、正統派のキリスト教会の正典とされたものです。
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一時期Tamaはアッシジの聖フランチェスコにはまっていました。それなりの量の伝記を読んだなという記憶もあります。
以下は、その当時の記憶をたどって、私にとって特に印象的だったフランチェスコについてのお話です。
フランチェスコは1181/1182 年にアッシジで生まれた聖人で、フランシスコ修道会の創始者でもあります。
フランチェスコは若い頃、かなりの遊び好きで、毎晩仲間たちと宴会を開いて「宴の王」と呼ばれており、親からも呆れられていました。しかし、彼はある時、教会の十字架からイエスの「行って、私の家を建て直しなさい」という神秘体験をし、回心しました。
『論語』は、孔子とその高弟たちの学問集団の活動・発言などを記録し纏め上げた20巻からなる書物です。
『論語』は孔子の生前に出来上がったものではありません。『論語』は孔子の死後約100年程経った頃に、孔子を中心とした学問集団の後継者たちによって書物が集積され、編纂されたものと言われています。内容は孔子の言動、孔子と弟子たちとの問答などの記録です。
この様な宗教的や哲学的指導者の言行録が正典として成立していく過程は世界的に見ても共通するところがあります。キリスト教の新約聖書、仏教の仏典、ソクラテスの対話編なども同じような過程を経て、それぞれは正典化していきました。
孔子の活動・学問の目的は、夏・殷・周の伝統を体系立てて纏め上げることで、それを基盤として、新しい人類の理想、つまり「仁」を見出し、「仁」を現実の社会で実践、また実現することにありました。 “論語”続きを読む
祈りとは、文明の草創期から既にあったものです。祈りとは、人類が誕生した時から、行い始めた行為であるとされています。文化人類学的に言えば、祈りとは特定の宗教的な行為ではなく、人間にとって最も根源的な欲求に基づいた活動様式の一つなのです。祈りとは、人類全体において普遍的な活動なのです。何故なら、祈りとは、宗教の価値観や個人の思想を超えて、人類の発生から現在においてまで常に行われ続けてきたからです。
祈りの様式は、無数に分類されます。祈りとは、神聖視する対象、感謝する対象、恐怖する対象に対しての何らかの意思疎通を図ろうとする人間の行動様式です。また、その対象への意志の表明や表現することそのものが、祈りであるとも言えます。ですから、祈りの方法は、人間の取れる行動の数だけあると言えます。祈祷者の独白、呪文、定型句の朗誦、合掌、平伏、行進、踊り、円舞、歌、音楽、儀式そのもの、生贄をささげる行為、など諸々の行動・所作が祈りと結び付けられます。
縄文人は、豊かな感受性を持ち、ものの本質を見抜くことに長けた人々でした。彼らは、「物」の奥に隠されている本質・霊性を感じ、力ある「モノ」として尊びました。畏怖と畏敬の感情は、自分たちの生活領域に関わるモノ全てに対してありました。
いつの頃か、日本人は神聖な感情や畏れ引き起こすモノをカミと呼ぶようになりました。本居宣長は『古事記伝』において「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」[1]とカミを定義しています。
つまり、尋常ではなく偉大で、凄まじい力(エネルギー)を持っているものはどんなモノでもカミになる可能性があるということです。それも、良いものだけでなく、悪いもの、妖しい(怪しい)ものも、人間も区別なく、可畏(かしこ)ければ全てがカミになるということです。だから、日本には数えきれないほどのカミがいます。日本に八百万の神がいるとは正にこのことの故にです。
前回までの記事で、日本人の精神的・文化的基層が縄文文化と、その文化・風土の中で培われた原始神道を源流としていることを大まかに見ていきました。
今回からの記事では、原始神道と縄文文化との関わりを更に掘り下げ、縄文人の宗教的感性、カミ観念について考察していきたいと思います。
また、原始神道は、惟神の道(かんながらのみち=神と共にあるという意味)とも呼ばれています。惟神の道が縄文人にとって、どんな意味を持っていたのかも考察していきたと思います。
その為に、まず縄文文化とそこに息づいていた原始神道とはどの様なものであったのかということから見ていきます。
前回の記事の中で既に触れましたが、縄文時代の文化は考古学的研究の積み重ねにより、私たちが想像していた以上に豊かで高度なものであったことが明らかになってきました。縄文文化は、1万年以上という非常に長い期間に渡り持続・継続していきました。
原始神道・古神道と呼ばれているものは、ある時点で誰かによって創始された宗教ではありません。キリスト教や仏教の様に、創始者がいて、教典があり、教えを広めた特別な宣教者がいるという訳でもありません。
原始神道とは、縄文人の生活の知恵の結晶であり、生活の道といえるものです。神道は、惟神の道(かんながらのみち=神と共にあるという意味)とも呼ばれています。原始神道とは縄文人・日本人の生き方そのものです。だからこそ、原始神道は縄文人が自然に対して抱いていた畏敬の念によって生まれてきたものであると言うことができます。
縄文人は非常に感受性が豊かな人々でした。それは、自然をモノとして唯物的に見るのではなく、自然の中にある豊かな生命力を感じ、そこに生命への根源的な働きが表れていることを感じ取ったのです。そして、その自然の中にある生命力に、自分たちを超えたものがあると悟り、これを神と捉え、畏れ、崇めるようになっていったのです。
原始神道の起源を探ってみると、その源流は縄文時代にまで遡ることができます。
縄文時代に誕生し、発展していった固有の信仰体系は原始神道・古神道・縄文神道・神祇信仰と呼ばれ、神社神道とは区別されて考えられています。そもそも、当然ながら縄文時代には「神道」なる言葉は存在していませんでした。
神道とは中国の「易経」や「晋書(しんじょ)」に出てくる言葉ですが、日本で固有の意味をもって用いられたのは、外来宗教である仏教や道教・儒教と日本古来の信仰を区別することがきっかけであったと考えられます。
日本人が区別する意味で「神道」という言葉を用いた最古の記録は、720年に編纂された『日本書紀』の第二十一巻「用明天皇紀」、また第二十五巻「孝徳天皇紀」に記されています。